罪の代償は死ではない・・・、しかし


キリスト教の教えでは、人類始祖が罪を犯した代償として、人間に死が宿命づけられたという。つまり、クリスチャンの多くは現在でも、罪を犯さなかったならば死は存在しなかったと真面目に考えている。

しかし、これは生化学の観点から見れば、全くのデタラメである。すでに遺伝子にインプットされている情報の解読がなされており、どんなに頑張っても通常120〜125歳が人間の平均寿命であることが判っているからだ。

この事実から往々にして、仏教者の方は、「生老病死」を前提とする、仏典の教えが「死を基本的に肯定しつつ“人生一切皆苦”」という境地を説いている点で、キリスト教よりも勝っていると、ついつい思いがちである。

ところが、生化学のもう一つの報告によれば、「精神と寿命」の密接な関わりが解き明かされている。つまり、マイナス的(煩悩・悪なる思い)な精神作用が、歴史のある時期から働き始めたために、本来の遺伝子にインプットされている寿命より、遥かに早い段階、すなわち70〜80代で現代人の寿命が尽きていることが、むしろ不可解であることが指摘されてきたからである。(※つまり、煩悩は後天的である可能性が高くなってきた)

仏典では、「煩悩や因縁や悪は始めもわからぬ昔から存在する」と説いていて、病気も肯定しているのだが、最先端の科学からの報告では、本来インプットされている寿命とのギャップから考えても、ある時期を境に煩悩や因縁や悪が侵入してきた影響による精神作用が寿命を短くしていることが明らかになってきているのである。

結論的に言うと、罪の代償は死ではなかったのだが、寿命には少なからず影響を及ぼしたということになる。罪による悪なる精神作用は、生化学的には、栄養の吸収に多大な影響を及ぼすことが判っているからだ。すなわち「健康と精神の密接な関係」である。

また、もう一点、罪によって傲慢に陥ったということは、正しい情報が理解不能になった(無知に陥った)と考えられるゆえ、「正しい食事(=栄養)がわからなくなってしまった」と考えられる。

ようやく、21世紀の今日、「正しい食事(=栄養)」については、「糖質栄養素」の出現で希望が持て始めている。あとやるべきことは、人類にとっての「本来の健康を取り戻す(回復)」するためにも、「煩悩と因縁」の鎖を断ち切るだけである。